バフ

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唐塗の重箱の蓋を1枚持って来られたお客様がいた。スポンジの固い方でこすってしまって傷が付いたという。直りますかと心配顔である。見るとまだ新しくいい塗である。傷はどこだろう?眼が悪くなったのかなと思ったら、線状の傷というよりも直径3cm位の「くもり」である。この程度ならだ大丈夫でしょうと、隣接する工房に持って行った。工房長が早速にバフをかけてくれた。バフというのは牛や鹿の揉み皮で研磨材として使われる物である。あっという間に「くもり」がとれる。これじゃお金の取りようがないですねということでお客様に渡した。大層喜んでいただいた。うちで出かした品物ではないが、物が良く傷も浅かったのであっという間の仕事であった。あっという間過ぎてお代は頂戴できなかったけれど。

ガラス蓋の小箱

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ガラスはその透明感と落とすと割れるというはかなさのせいか、涼感ただよう夏の器である。漆器は熱の伝導率の低い、そして柔らかな感触が美点で、熱い汁物を飲むのに適した冬の器である。だから漆とガラスは意外な組み合わせかもしれないが、案外と似合うと思っている。

寿々喜塗(すすきぬり)という小店のオリジナルでありトレードマークなのだが、黒のツヤのあるススキの模様と地が黒のツヤ消しなのだがお分かりなるだろうか。基本的には紋紗塗の技法を使っている。紋紗塗は侍の刀の鞘に使われた非常に丈夫な塗である。
(12×12×8cm 23,760円)

納期2カ月以上

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津軽塗の下地の工程に「布着せ」というのがある。綿布を糊漆で貼るのだが『資料館』で見学の方に解説して驚かれることがある。仕上がるまで2カ月以上かかるというと呆れられることがある。30年以上この商売をしているとついつい当たり前になってしまうが、やっぱり世間的には珍しいことであろう。
結婚式の1カ月前に引き出物を選びに来たお客様がいた。ご希望の品物が数がそろわず、新たに作るとなると2カ月以上かかると言われて残念がっていたが、こちらもそれに負けず劣らず残念であった。引き出物とかお土産はどうしても一番後になってしまう。2カ月も3カ月も前から手配する人は中々いない。かと言って48工程の内のどれかを省くことは許されないし、すべきことではない。
資料館や店頭で伝え続けるしかないのだろう。

(画像は座卓の脚なのです)

職人列伝

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この原稿は今年の1月に弘前法人会の機関紙「法人 ひろさき」に掲載されたものです。会員以外の方には初見だと思いますので、掲載させていただきます。

外職人(そとしょくにん)という言葉がある。内孫、外孫と似たような使い方で、住込みの内弟子ではなく、独立していて自宅で塗物を塗り、品物が仕上がったら親方の所へ納めに来るという工人である。津軽塗の業界では箸職人が多かった。
その中の一人に竹森源吉という人がいた。腕は良かった。痩身細面の小柄な人だった。十五年くらい前まで家に出入りしていたのだが、当時八十近くだっただろうか。津軽塗の箸は十膳毎に輪ゴムで束ねたものを新聞紙に包んで持って来る人が多いのだが、彼は違っていた。津軽塗の箸の木地は頭の所が四角で先は細くなっているので、十膳をキッチリ揃えると角錐形になる。これを紙紐で束ねて、十膳ずつ新聞紙できちんと角錐形に包装するのである。職人というのは得てして細部にこだわるものだが、彼は中でも別格であった。
いつも下町から自転車に乗ってやって来た。灰色の小ざっぱりした服装で、大きい明るめの茶色の革靴を履いていた。判取帳に署名するとき「自転車で来たはんで、手震えるのせ」と言って実際に小刻みに震えた字を書き残した。
ある時、連れ合いが亡くなったと言い出して驚いた。それももう何か月も前のことだという。葬式も出さなかったような話しぶりである。恐らく今でいう家族葬だったのではないかと思うが、当時は特に下町でというか職人間では通夜葬式の香典は相互扶助のような意味合いが強かったから、なおさらであった。
浄土真宗の村田静照という方は師匠の葬式にも行かなければ奥様の葬式も出さなかったという伝説がある。
一休宗純は六十歳のころ雀が死んだのを悲しんで葬式を出したという。大体に宗教者、特に禅僧には奇矯な行動が伝えられることが多い。常識や世間知を超越している場面もあるだろし、覚者が凡夫を目覚めさせるためにすることもあっただろう。しかし職人は市井の人であって悟りを開いたわけではないのだが、長年一つのことに専心して来た者の何かしら重なるものを感じない訳にはいかない。
藤木飛弘三という職人がいた。行き会ったときは既に七十を超えていたと思う。小柄で眼鏡をかけていた。耳が遠いので会話に難渋をしたが記憶に残っている言葉がある。「飯ベラさえ作っていれば飯が食えると」と親に言われたという。親子二代の職人だったのだろう。実際に飯ベラばかり出かしてきた。普通の職人であれば百枚塗っても寸分違わないように仕上げてくるものだが、彼は違った。塗り掛けの漆の色を微妙に変えて、大げさに言えば一枚一枚皆違うように仕上げてきた。そうすれば売れやすいと思ったのか、あるいは絵心のなせる業だったのか、一枚一枚違えるのは大変な手数であったろうに、その理由をとうとう聞くこともなく逝ってしまった。
他にも渡辺国太郎という職人がいた。
唐塗の呂上(ろあげ)の深みを綺麗に出せる人であった。今ではその芸を見ることがほとんどない。
一戸幸雄という職人もいた。この人は元々家の内弟子だった人で、その後独立して生地の五所川原から七子塗の箸を仕上げて持ってきたものだ。これが丁寧で綺麗な仕事ぶりだった。痩身細面で品のある人であった。親が歯科医であったが早世したために、津軽塗の世界に入ってきたと聞いた。
今でも食卓には竹森源吉の作った唐塗の黒上(くろあげ)の箸があり、もう少し話を聞いておけば良かったと、食事のたびに思うことがある。

(画像は津軽塗に使われるヘラ)

修復

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「札幌のIさんからお電話です」
札幌にIという親戚や友達はいない。お客様だろうけど、聞き覚えの無い名前だ。クレームじゃなきゃいいなと思いながら受話器を取った。
「きれいに直していただきまして本当にありがとうございます」
今年の桜まつりに来店して津軽塗の夫婦椀の修復を頼まれたお客様だった。3カ月も前のことなので直ぐには思い出せない。7,000円位のお椀に修復代が4,000円以上かかると言ったのだが、それで結構だとその場で支払っていった方だった。
意外に思われるかもしれないが、例えば親の形見だから(つまり大切な物だから)金に糸目は付けないと言って修復をお願いされたことは、30余年の間でまぁ5人位だね。というくらい滅多にあることじゃない。
昨日は滅多にない商売冥利という奴を味あわせていただきました。

喫煙

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七子塗の煙草入をYさんからいただいた。家にあるよりお宅にあった方がいいという。
Y酒造の蔵から出てきたものだそうだ。桐箱に収まっていて、ふたの裏に「齋藤漆器店」「弘前市百石町」の角印が押してある。
家具の「さいくま」らしい。戦後しばらくまで津軽塗も扱っていたので少なくとも何十年も前の物だ。ひょっとしたら戦前の物かもしれない。一度も使われなかったのではないかと思えるくらい艶がある。
黒く見えるが実は黒種青上(くろたねのあおあげ)というダークグリーンの塗で、縁に三角の模様が施してある。当時としては中々モダンなデザインである。
3、40年前の話だが、普通、客間には津軽塗の座卓が据えられて、その中央に煙草セットと言われた煙草入とライターがセットになったものが置かれていたものだ。唐塗の煙草セットも昔はずいぶん売れたものだった。今でも茶席に煙草盆が用意されるように、昔はお客様をお迎えする必須アイテムだったのだ。
思えば遠くに来たものだ。丁度先ほど弘前市役所から「受動喫煙防止にご協力ください」というアンケート調査の回収が来ていた。

朝の店頭

 

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毎朝8時30分ごろ、店頭の清掃をするのが日課である。
ひと頃はカラスの糞に悩まされたものだが、最近は多くて10羽くらいで大した被害は無い。カラスの絨毯爆撃さえなければ、道路を掃き清め如雨露で水を撒くのは楽しい作業の一つである。仏事の作務のようでもあるし、客を迎える茶事のようでもある。
観光客から開店時間を聞かれることがある。弘前公園を見てから寄ると言われたりするとうれしくなる。
小さな女の子に尋ねられたことがあった。
「どうして水を撒くの?」
「ホコリが立たないようにね」
「ほこりって?」
「んーと、小さなごみ」
隣で若いお父さんが少し申し訳なさそうな顔をしていた。
でもこういうことって子供にとって社会勉強になるし、こちらも悪い気はしない。
今日もきっといい日だ。

村上善男先生の

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田中屋に隣接して『田中屋工房津軽塗資料館』がある。
そこには郷土の出版社である「津軽書房」のほぼ全ての出版物が並べられている。
表札のように金釘流で書かれているのは、何を隠そう美術家・村上善男の直筆なのだ。この資料館のデザインそのものが村上先生の手によるもので、地元の図書を置こうと提案したのも村上先生なのだ。2001年のことだった。翌年、弘前商工会議所から「街づくり大賞」を頂いた。そのお祝いの会を村上先生が音頭を取って開いてくれた。といっても大げさなものではなく、友達関係10人くらいのささやかで和やかな会だった。乾杯から村上先生が進行役を務めてくれて仕切ってくれた。いい雰囲気でワインを空けながら歓談を重ねた。
私のお礼のご挨拶は乾杯の次という順番でも無かったから、最後の方かなぁと少し気にはしながらも、そこは気の置けない友人達となので、いつとはなしに話がそれぞれで盛り上がり、夜も更け気が付いたらそのままお開きになった。
あれは村上先生のうっかりだったのだろうか、何かの心配りだったのだろうか?
先生との思い出はミステリアスなことがある。

弘前大学で講義をした!

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津軽塗の田中屋店主の田中久元と申します。今日からブログを始めました。何分不慣れではありますが、お付き合いを賜れば幸いです。

先月8日弘前大学で学生100名以上を前に講義をしました。『津軽学』という津軽三味線やこぎん刺し等々津軽のことをレクチャーするカリキュラムなのですが、何せ相手は19、20歳の若者ですから伝統工芸に馴染みも関心も無いだろうし、実物を見せるしかない!ということで、『田中屋工房津軽塗資料館』に展示してある工程見本の角盆33枚を風呂敷に包んで持っていきました。
大学の校門近くの受付で教室の場所を尋ねたら、
「納品したらすぐ帰るのですね」と言われました。そりゃあ大きな風呂敷包みを抱えて、半袖のワイシャツに律儀にネクタイをした出で立ち。誰も講師だとは思わないよね。
私としてもお盆33枚納品した方が売り上げになるし、よっぽどいいのですが。
19、20歳といえば私の息子より年下で、ということは彼ら彼女らから見れば自分の父よりも年上ということになるわけで、おじいちゃんですね。
それでも結構ちゃんと聞いてくれて、1時間を終えました。どこまで伝わったかは分かりませんが、伝統工芸に接してもらうありがたい機会だと思いました。