あけび籠

untitled
untitled

子供の名前に付けられる月名は「やよい」と「さつき」くらいであろうか。いい季節になった。買い物に出るとご婦人が日傘をさしてアケビの買い物かごを提げている。いかにもいいとこの奥様という風情である。弘前らしい風景の一つではないか。あけび細工は東北全般にあるというが、最北端の岩木山麓で採れるあけびが最も丈夫だと言われている。

(15,120円)

コギン

untitled
untitled

着物姿の奥様方数人が店に入って来た。こういうお客様は店内に居てくれるだけでいいものだ。店の格が上がるし何より塗物によく似あう。「御茶会でもあったのですか?」と声を掛ける。御茶会は明日だそうだ。2階までいらして、コギンの壁掛けを見て歓声が上がった。「綺麗」「凄い」それもそのはずである。工藤得子先生が刺したものだ。ご存命のころは毎年銀座松屋で個展を開いていた。第一人者だったと言っていいだろう。着物姿の奥様方に誉められてコギンもうれしいだろう。

竹の花

untitled
untitled

竹が生えてきた。タケノコというには董が立っているが。
子供のころに竹の花を見たことがある。大変珍しいものとして一房の白い小さな花を見せてもらったことがあった。60年に一度だけ咲いて、枯れるのだと聞いた。中国では竹の花が咲くとお祭りをするという話も聞いた。マダケは120年周期だという。前回の開花は昭和40年代だったという。世界中の竹が一斉に花を咲かせ、そして枯れたという。計算すると次の開花は75年後だという。だとすれば大変稀なものを見たことになる。

道端の花

untitled
untitled

田中屋前の歩道である。雑草だと思っていたら、花が咲いた。これでも弘前市一番町で、一応は街の真ん中なのだが・・・花が咲いていると、むしるにむしれないものだ。散るまでこのままにしておくか。信号で停車したドライバーの慰みか話のタネくらいにはなるかもしれない。

文体

 

untitled
untitled

長部日出雄のエッセイが津軽塗資料館の図書コーナーに置いてある。1990年発行。四半世紀も前のことだが長部日出雄を講師として青森空港まで迎えに行くお役目をしたことがあった。運転手は弘前青年会議所のメンバーだった太田裕さんが引き受けてくれて、私はもっぱら話し相手役である。同郷の先輩とはいえ一流作家である。粗相が無いようにと原作・脚本・監督が長部日出雄の『夢の祭り』のビデオを借り、最新作の『振り子通信』を買った。このエッセイ集はタウン誌『弘前』に連載されていたもので、毎月読んでいたのだが、その時はサラッと流して書いているなぁという印象だった。失礼な話だが原稿料だってそんなに貰えないだろうしと勝手に想像していた。ところが単行本でまとめて読むと印象が全然違った。堂々たるものだ。これが文体という奴なの力なのかと思った。書中で文体(スタイル)に触れていることもあって、文体について初めて考えさせられた1冊である。ちなみに装幀は村上善男である。

新緑

untitled
untitled

わずか数ミリのコンクリートの割れ目から雑草が生えてきた。今年は桜が早咲きで、リンゴの花も早かったが、今日も最高気温が24度の予報だ。弘前も夏のようだ。新緑の木陰は花の時に勝るという言葉があるが、3,4センチの雑草が木陰を作り出すほどに伸びることは無いのだが、これでも新緑には違いない。

リンゴの花

untitled
untitled

今朝、店の前にかなり大きな花の枝が立てかけてあった。リンゴの花だ。田中屋画廊で「からなしそさえて」展の会場に飾るものだという。「からなしそさえて」展は何十年と続くグループ展である。絵画、彫刻、陶磁、詩、多種多様なジャンルからなっている。
桜が終わればリンゴの花だが、津軽の農園は花粉付けの最中である。弘前公園の桜も見事だが岩木山の裾野に広がるリンゴの花もまた見事である。弘前りんご花まつりは15日で終わったが「からなしそさえて」展は明日17日までだ。どうぞご覧ください。

ネクタイ

untitled
untitled

20年も前に村上善男先生からもらったネクタイである。命日は10日前だがふと思い出して絞めてみた。もらった当時私は30代だったから、S先輩から「田中君。それは50代くらいで付けるものだ」と言われた。なるほどあの時、村上先生は50代であった。よく教え子さんや若い人に身に付けていたものを上げる人だった。自分が死んだときの全国紙の扱いの大きさまで話して聞かせる人だった。確かに現代美術史に確固たる足跡を残した人だったが、僕のことを覚えていてくれという心情の人ではなかったか。「芸術家は寂しがり屋が多いんです」という言葉を耳にしたことがある。

散る桜

untitled
untitled

八重桜が花吹雪になっている。風が強いせいか花房ごと散っている。
ネットで見たのだが花吹雪に会ったイギリス人が「日本人が桜が好きな理由がようやく分かりました」と感に堪えたように言ったという話があった。詩人の大岡信だったと記憶するが、弘前公園の夜桜を見て「狐に化かされているような」という感想を漏らしたことがあった。確かに満開の時はこの世も物とも思えないような雰囲気がある。「桜のためになら死ねる」という言葉をどこかで見た記憶がある。誰も花のために命を落とすことは無いし、修辞的すぎ過剰すぎる表現なのだが、桜をバラや菊に置き換えたりすることは出来ない。やはり桜は別格なのだろうか。

柱の様式

untitled
untitled

田中屋1階にある大黒柱である。置き石と接するところが微妙に丸みを帯びている。何のためだろうか、洒落ていると言えないこともない。多分、気が付く人もいないだろうが。
法隆寺の円柱が下部あるいは中部から徐々に細くなっていて、これはギリシャのパルテノン宮殿にも見られる「エンタシス」と呼ばれる様式だとかつて習ったことがある。古代ギリシャの建築様式が、例えばシルクロードを通ってはるばる極東の島国にまで到達したとすれば、ロマンチックな話だし、何といっても古代ギリシャは民主主義の発祥の地でヨーロッパ文明の源流である。日本もそれに連なるものがあるとすれば、悪い気はしない。しかし、教科書にも載った伝播説は科学的根拠があるわけでもないらしい。店の柱の丸みは古代ロマンとは何の関係もないのだが、この様式にも由緒ある名前があるのだろうか。